政治哲学史講義 「編者の緒言」
政治哲学史講義 「編者の緒言」
サミュエル・フリーマン
pp.v-
1
本書に収録した講義は、ジョン・ロールズが、1960年代の半ばから1995年に退職するまで行った近代政治哲学という科目のために執筆した講義およびノートから採られている。
1960年代後半から1970年代にかけて、ロールズは、彼自身の正義論、つまり公正としての正義を、他の現代の著作や歴史的な著作と関連づけて講義することが多かった。
たとえば1971年の講義で彼が教えたのは『正義論』に加え、ロック、ルソー、ヒューム、バーリン、そしてハートの著作だった。
1970年代後半から1980年代の初めには、この科目は完全に、本書に登場する歴史上の主な政治哲学者のほとんどについての講義から公正されるようになった。
1983年、つまり、ロールズが『正義論』を含めずに歴史的な人物だけについて教えた最後の年には、彼は、ホッブズ、ロック、ヒューム、ミル、そしてマルクスについて講義を行った。
政治哲学史講義 「講義概要」(1983年版)
それ以前の講義では、ルソーと同様、シジウィックについてもしばしば論じられたが〔1976年、1979年、1981年〕、その際にはホッブズとマルクスの双方、あるいは一方は論じられなかった。
1984年には、ロールズは再び『正義論』の一部を、ロック、ヒューム、ミル、カント、マルクスに関連づけながら教えた。その後すぐ彼は、カントとヒュームを政治哲学の科目から外し、ルソーについての講義を加えた。
(私見: カント講義とヒューム講義)
これらの2つの講義〔カント講義とヒューム講義〕は道徳哲学史講義にて取り扱われている
〔ロック講義、ルソー講義、ミル講義〕
この時期を通じてロールズは、ロック、ルソー、ミル、そしてマルクスについての本書に収録された講義の最終版を執筆し、それと並行して2001年に『公正としての正義 再説』として出版される講義を書き進めた〔本書の講義のところどころで、公正としての正義と比較が行われているのはこの事情によって説明される〕。
これらの講義は、ロールズの教員経歴の最後の10年から12年の間、毎年行われたので、本書の講義のうちで、ロック、ルソー、ミル、それとマルクスについての講義は最も完成度が高い。ロールズは1994年まで、これらを電子ファイルにして、時間をかけて手を加え洗練させていった。したがって、これらの講義についてはほとんど編集する必要がなかった。
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それに比べて完成度がいくぶん劣るのは、1983年のホッブズとヒュームについての講義である。
この2つの講義は、一連の継続する講義として執筆されたようには見えない〔最初のヒューム講義の大部分を例外として〕。
〔ホッブズ講義、ヒューム講義〕
本書に収めたホッブズとヒュームの講義は主に、この学期の講義のテープ録音を起こしたものであり、ロールズの手書きの講義ノートと受講生に配布された資料を用いてそれを補完した。ロールズはたいてい、講義の主な論点を概略的に示した要約を受講生に配布した。1980年代初め〔ロールズがワープロを使って講義をタイプしはじめた頃〕よりも前の時期には、そうした配布資料は細かな字で書かれたものであり、それをタイプしたものに換算するとシングルスペースで2枚以上になる。本書ではそうした配布資料を、ホッブズとヒュームについての講義を補完するために用いた。それはまた、補遺に収めたシジウィックの最初の2つの講義の内容のほとんどを示すものとなっている。
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本書の講義から引き出しうる大きな利点の一つは、
ロールズが社会契約論の伝統がもつ歴史を、どのように考えていたかが明らかになり、彼が自分自身の仕事を、ロック、ルソー、カントの仕事、またある程度はホッブズのそれとの関連においてどのように見ていたかについて示唆が得られることである。
ロールズはまた、ロックの社会契約論に対するヒュームの功利主義的な反応について論じそれに応答している。
〔社会契約論を浅薄であり「不必要なごまかし」であるという今日にいたるまで続いてきた批判のパターンを、最初に打ち立てたその議論も含めて、論じている〕
本書のもう一つの重要な利点は、
ジョン・スチュアート・ミルのリベラリズムをロールズが論じていることである。ロールズ自身の見解とミルの見解の間には多くの類似性があることが示唆されている。
その中にはミルの自由原理とロールズの第一原理の明白な類似性だけではなく、ミルの政治経済学とロールズによる分配的正義や財産所有のデモクラシーとの間にある、より見えにくい類似性も含まれている。
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マルクス講義は、おそらく他の講義よりも長い年月をかけて徐々に書き進められたものである。
マルクスは正義の〔概念について自分の〕構想をもたず、むしろ、正義を労働者階級の搾取を維持するのに必要なイデオロギー概念であると考えていた見方〔なかでもアレン・ウッドのとる見方〕を、1980年代初めまでロールズは認めていた。
彼は本書のマルクス講義ではこの立場を修正しているが、それにはジェラルド・アレン・コーエンや他の人の影響が与っている。
ロールズによるマルクスの労働価値説の解釈は、彼自身がこの説の主要な目的とみなしているものをその時代遅れの経済学から切り離そうとしている。彼はそれを、正義に適った分配に関する限界生産性理論や、純粋な所有 ownership こそ生産に対して具体的な貢献を行なうものであると見る。他の古典的な自由主義や右翼の自由至上主義的な考え方に対する強力な応答として解釈している(「マルクス講義Ⅱ」を参照)。
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ジョゼフ・バトラーとヘンリー・シジウィックについての講義は、本書の他の講義のように完成された形では残されていない。とはいえロールズは、2002年11月に逝去する直前にこれらの講義を公刊することに同意し、それは、補遺として本書に収められることとなった。ロールズは、政治哲学の授業で何年かにわたって〔1976年、1979年、1981年を含む〕シジウィックを取り上げた。
〔シジウィック講義〕
彼は、三人の主要な功利主義の哲学者〔と彼がみなす人物〕の著作について受講生の理解をはかるために、ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルとともにシジウィックについて教えた。彼はシジウィックをベンサムにはじまる古典的な功利主義の伝統の頂点に位置すると考えたのである。
彼はまた、シジウィックが『倫理学の方法』で示した比較の方法を、道徳哲学が見習うべき一つの典型を提供するものとみなした。
本書におけるシジウィックの最初の2つの講義は、完成した講義とみなすことはできない。シジウィックについての第3講(1975年)は、第2講における功利主義についての簡潔な議論と内容的には重なっているが、古典的な功利主義の立場の前提や含意についてはるかに詳しい議論を行っている。この講義と短い第4講(1976年)は、ロールズの公刊した他の功利主義についての議論 —— 『正義論』、「社会的効用と基本善」やそれ以外のものにおける議論 —— には見ることのできない、多様な内容を含むものとなっている。
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〔バトラー講義〕
バトラーについて5つの講義は、ロールズの手書きのペーパーに含まれている。これらの講義は、1982年春の道徳哲学史講義で行われたものであり、ロールズは、この学期にはカントとヒュームについても教えている。
彼の考えでは、バトラーは、イギリスの哲学者のうちで、ホッブズに対する非功利主義的な応答を行った主要な人物である。彼はまたバトラーを、近代の道徳哲学における主要な人物の一人としてみなしている。ロールズが自分自身のために書いた〔講義そのものには用いなかった〕ノートには次の文章が含まれている。
「バトラーにおける主要な論点〔ホッブズとバトラー、近代道徳哲学の二つの偉大な源泉、問題を提起する者としてのホッブズ、それを論駁する者としてのバトラー。バトラーはホッブズが提起した問いに対して浅薄ではない答えを与えた〕」
これに加えてロールズは、カントとバトラー両者の良心についての学説にはある結びつきがあることを見出しており、おそらくそのことが、カントの非自然主義的、非直観主義的な道徳の説明はドイツの観念論哲学に固有のものではないと、ロールズに確信させる根拠となった(注釈3)。
(注釈3)
p.xviii
それは、ロールズが自分自身のためにつくったノートによって確かめられる。カントへの参照を書き記した次の二つの箇所でバトラーの名が挙げられている。
(4) ホッブズに反対するエゴイズム —— バトラーは、道徳的なプロジェクトを自己の他の部分〔わたしたちの自然的欲望など〕と同じくらい自己の一部をなしていると考える。カントは ML 〔道徳法則〕を R+R 〔合理的なものと理にかなったもの Rational and Reasonable 〕に結びつけることによって、この論点を深めている。
(9) これをカントに結びつける —— 彼〔バトラー〕の理に適った信仰の観念を含めて。
バトラー講義は、「理に適った道徳心理学」の観念が、論点の道徳的・政治的哲学の構想において中心的な役割を果たしていることを示唆している〔ミル講義、ルソー講義にも類似の点が認められる〕。
ロールズの仕事を支えている主要な考えの一つは、正義と道徳は人間の本性に反するものではなく、むしろ逆に、わたしたちの本性の一部であり、実際、人間の善にとって本質的なものである、少なくとも本質的なものでありうる、ということである〔『正義論』第8章「正義感覚」および第9章「正義の善」を参照〕。
バトラーが道徳的徳性と「自己愛」を和解させたことをめぐるロールズの議論が、正と善の収斂を支持する彼自身の議論と対応関係にあるということは注目に値する。
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ロールズは、自分の政治哲学講義について論じた『私の授業についての若干の見解』(1993年)と題する、短い手稿を彼の文書の一つとして残している。この講義に関連する部分は次の通りである。
〔『私の授業についての若干の見解』〕
7-1
私は、長年にわたって、だいたいのところ、道徳哲学と政治哲学を、それぞれ隔年の講義で教えてきた。私は、しだいに、政治的・社会的な哲学により焦点を当てるようになり、公正としての正義を構成する諸部分を、これまでこの主題について著作を著した人々と、いわば手を携えながら論じるようになった。
それは、ホッブズにはじまり、ロック、ルソーとつづき、カントにまでいたることもあった。カントをその授業に組み入れるのはたいへん難しかったけれども、ときには、ヒューム、ベンサム、ミル、シジウィックをそれに含めることもあった。
しかし、カントの道徳哲学は、たいていは他の著作家とともに別の授業〔道徳哲学史講義〕で取り上げた。カントとともに取り上げた著作家は一定しなかったが、ヒュームとライプニッツはカントが確実にそれを知っていた、彼とは著しく異なった学説の例としてしばしば取り上げた。
折にふれて考察した他の著作家には、クラークやバトラーやシャフツベリ、ハチスンといった18世紀、英国の他の人たちが含まれる。ムースやロス、ブロードやスティーヴンスンを現代の例として扱うこともあった。
7-2
これらの人々について語るとき、私は、いつも二つのことを行おうと努めてきた。
一つは、彼らの哲学的問題を —— 当時の道徳的・政治的な哲学の状況についての彼らの理解を所与として —— 彼ら自身がそれを理解していたように設定することだった。
そうやって、私は、彼らが何を自分にとって主要な問題であると考えていたかを見分けようと努めた。私は、たびたびコリングウッドの『自伝』における見解を引いたものである。
(私見:道徳哲学史講義での同様の記述)
道徳哲学史講義 「編者の緒言」#695f07fc000000000088923e
政治哲学の歴史は、同一の問いに対する一連の答えの歴史ではなく、異なった問いに対する一連の答えの歴史であること、
彼が実際に用いている言葉で言えば、それは、
「大なり小なり絶えず変化する、ある問題の歴史であり、それに応じてその解決も変化する歴史」(注釈 5)
であることを、受講生に伝えようとした。
(注釈 5)
ロビン・ジョージ・コリングウッド『思索への旅 : 自伝』第7章「哲学の歴史」p.74
思索への旅 : 自伝 (フィロソフィア双書 ; 2) | NDLサーチ | 国立国会図書館 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001518545
引用部分 : 思索への旅 : 自伝 (フィロソフィア双書 ; 2) - 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12289935/1/40?keyword=政治理論の歴史とは
コリングウッドの見解は完全に正しいわけではないとしても、それは、政治哲学が時代を越えてどのように、そしてなぜ展開してきたのかを理解するために、同時代の政治的世界について著作家たちの視点を探求することの大切さを私たちに伝えている。私は、それぞれの著作家は民主的な思想を支持する学説の展開に寄与していると見ている。そのなかにはマルクスも含まれ、彼についてはいつも政治哲学の授業で論じた。
7-3
私がしようと努めたもう一つのことは、
それぞれの著作家の思想を、その最も力強いと私が考える形で示すことだった。
私はセジウィックを評した際のミルの言葉、
「学説というものは、その最良の形で判断されるまではけっして判断されたとは言えない」
を、深く心に刻んでいる。
(私見:道徳哲学史講義での同様の記述)
道徳哲学史講義 「編者の緒言」#695f0c7a00000000006697cf
ジョン・スチュアート・ミル「セジウィックの論説」
功利主義論集 (近代社会思想コレクション ; 05) | NDLサーチ | 国立国会図書館 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011055684
そういうわけで、講義ではまさにそのように試みた。私は、彼が言ってしかるべきだったと私が考えたことを少なくとも意図しては語らず、まさに彼らが語ったことを、彼らのテクストの最も理に適った解釈と私がみなすものに依拠しながら語った。テクストはまず熟知され、尊重されねばならず、学説は最良の形で示されたものとして理解され、尊重されねばならない。テクストを脇に追いやることは無礼であり、ある種の虚勢であると考えた。そのテクストから離れる —— そのことに害はない —— ときは、私は必ずそう述べた。こういう仕方で講義することによって、著作家の見解はより力強く、より説得力のあるものとなり、また受講生にとってもよりいっそう研究に値する対象になる、と私は信じている。
7-4
そうする際、いくつかの指針が私を導いた。たとえば、私は、いつも、私たちが研究している著作家はつねに私よりもはるかに賢明であると想定した。もしそうでないとしたら、彼らを研究することによって私自身と受講生の時間を無駄に費やしてしまっていることにならないだろうか。
彼らの議論に何か誤りを見出した場合には、私は、彼ら〔哲学者〕にもまたそのことが見えており、したがってそれをどこか別のところで論じているはずだ、と考えた。そこで私は、彼らの解決の仕方を探求した。私の解決の仕方ではない。ときには、その解決の仕方は、歴史的なものであった。その当時は、〔私が問題と思っている〕当の問題は提起される必要がなかったか、あるいはまた、提起され、実りある仕方で論じられる慣行がなかった。また私が見落としたり、あるいはきちんと読んでいなかったテクストの一部にその答えがあることもあった。
7-5
そうするにあたって、私は、カントが『純粋理性批判』( B866 )で述べたことにしたがっている。
彼は、哲学とは可能な学というたんなる理念であり、具体的にはどこにも存在しない、と述べている。では、私たちは、それをいかに認識し学ぶことができるのだろうか。
「—— わたしたちはいかなる哲学をも学ぶことはできない。実際、哲学はどこにあるのか、誰が哲学を所有しているのか、また何を手がかりとして哲学は認められるのか、私たちが学びうるのは哲学することだけである。言い換えれば、理性の能力をその普遍的原理に従いつつ、現存するある種の試みに即して行使することだけであるが、そうは言っても、そうした試みそのものをその源泉において探求し、確証し、あるいは拒否する理性の権利は、つねに留保されているのである」。
(私見:道徳哲学史講義での同様の記述)
道徳哲学史講義 「編者の緒言」#695f1483000000000071fede
岩波文庫『純粋理性批判』下巻 Ⅱ 先験的方法論 第3章「純粋理性の建築術」 p.128
「我々は哲学というものを学習することができない。実際 —— 哲学はどこにあるのか、誰がそれを所有しているのか、また我々は何によってそれが哲学であることを識知するのか、我々は所詮、哲学的に思索することを学び得るだけである、 —— 換言すれば、理性の才能を理性の一般的原理に従って、現に存在している或る種の哲学的な試みについて用い得るだけである、とはいえその場合にも、かかる試みをその源泉について究明し、確証し或は否定する理性の権利は保証されているのである。」(B866)
したがって、わたしたちは、道徳的・政治的哲学についても、哲学の他のどの部分についても、諸々の範例 —— 大切に扱われてきた試みを行った著名な人物たち —— を研究することによって、それらから学ぼうとするのであり、幸運にもそれらを乗り越えていく途があるかどうかを尋ねるのである。
私の務めは、ホッブズ、ロック、ルソーやヒューム、ライプニッツ、カントを —— つねに、彼らが実際に述べたことに注意深く耳を傾けながら —— 私がなしうるかぎり明晰にかつ力強くそれを説明することだった。
7-6
そういうわけで、私は、そうした範例に対して異論を唱える気持ちにはなれなかった。そうすることはあまりに安易で、本質的な事柄を逸することになるからである。もっとも、同じ伝統のなかで後に登場する者が修正しようとした難点を指摘したり、別の伝統に属する者が誤りであると考える見解を指摘することは重要であるが〔私がここで念頭においているのは、社会契約論と功利主義という二つの伝統である〕。
もしそうでなければ、哲学的思考は進展しえないし、後代の著作家たちが実際なぜ批判を提起したのかは神秘の闇に包まれてしまうことになるだろう。
7-7
たとえば、ロックについて言えば、彼の見方は、わたしたちなら受け入れないだろうある種の政治的不平等 —— 投票する基本的な権利における不平等 —— を許したが、ルソーがそれを克服しようとした事実について私は述べたし、彼がそれをどのように行ったかを論じた。
けれども、私は、ロックは、そのリベラリズムにおいて、彼の時代の先を行き、君主の絶対主義に立ち向かったことを強調した。彼は危険にたじろぐことはなかったし、1683年の、チャールズ2世の暗殺を企てたライハウス陰謀事件にも加わる —— そう見える —— ことさえするなど、彼の友人、シャフツベリ伯に忠実であった。彼はオランダに亡命し、かろうじて処刑を逃れた。ロックは危険に身を晒すことをいとわない勇気をもっていたのであり、おそらく、そうした途方もないリスクをあえて引き受ける数少ない偉大な人物の一人であったことは間違いない。
8
これらの講義のどれ一つとして、出版を意図して書かれたものではない。
実際、ロールズは、上に引用したロックについての言及につづく段落において、カントを論じながらこう述べている。
〔『私の授業についての若干の見解』〕
「 カント講義の最近の版(1991年)は、前のものよりも明らかに改善されているが、いまのままの形で出版されることには絶えられない〔そういう催促もあるが〕。それはまだ、これらの問題についてまだカントを正しくとらえられてはいないし、いま他の論者がなしうるところまで追いついていない。」
この文章に示されるように、ロールズは、長い間、講義を出版することに抵抗してきた。しかしロールズは『道徳哲学史講義』(編 バーバラ・ハーマン 2000年)を出版することについて説得に応じ、この本が実質的に完成してようやく、政治哲学史講義についても、それを出版することに同意してくれた。
9
最後に『私の授業についての若干の見解』を締めくくりながら、ロールズがこう述べている〔彼は、ここでカントについてまったく謙虚な態度で語っていることを、本書の他の哲学者についても同じように語るはずである〕。
〔『私の授業についての若干の見解』つづき〕
9-1
とはいえ、すでに述べたように、私は、カントの全体にわたる構想から自分が得ることのできた理解にけっして満足したことはない。
このことは、ある不幸な気持ちを抱かせるし、ホーマーやサージェントと並ぶ偉大なアメリカの水彩画家、ジョン・マリンをめぐる話を私に思い起こさせる。マリンの絵は、あなた方の多くも見たことがあるはずだが、ある種の具象的な表現主義の特徴をそなえている。1940年代後半には、彼は、おそらく指導的な芸術家、少なくともその数少ない一人として高く評価されるようになった。彼の水彩画を見れば、それが何について描かれたものかを言い当てることができる。たとえば、ニューヨーク市の摩天楼、ニューメキシコ州のタオスの山並み、メイン州のスクーナー船や港など。1920年代の8年間、マリンは、絵を描くためにメイン州の〔港町〕ストニングトンに出かけた。マリンについて素晴らしい本を書いたルース・ファインは、当時の彼を知っている誰かに出会えないかと当地を訪ねたときのことを語っている。彼女はようやく、次のように語るロブスター漁師に出会った。
「もちろん、もちろん。みんな彼のことは知っているよ。彼は、毎日、毎週、毎夏、小舟に乗って絵を描きに出かけたよ。あんたも知っているように、一生懸命頑張ったけど、ついぞものにできなかったね」
9-2
これはいつも言われることだが、まさしく私にも当てはまる。とりわけいまとなっては。「ついぞものにできなかった。」(注釈 6)
(注釈 6)
p.xix
〔マーディ・ロールズ(ジョン・ロールズの妻)による注〕
ジャック〔ジョン・ロールズのこと〕がこの話を受講生に何度も語ったことが思い出される。わたしたちは、ジョン・マリンの絵 "Deer Isle, Islets," (1992年) を『公正としての正義 再説』の表紙に選んだ。
ジョン・マリンの絵 "Deer Isle, Islets,"
John Marin - Wikipedia
Justice as Fairness: A Restatement - Wikipedia
ジョン・マリン著「メイン州ディア・アイル諸島」
https://maps.app.goo.gl/aNT4ebGPc9NwRhQCA
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これらの講義を編集する仕事において、私はマーディ・ロールズに多くを負っている。
(私見:ジョン・ロールズの家族について)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Rawls#Academic_career
1946年初頭、ロールズはプリンストン大学に戻り、道徳哲学の博士号取得を目指した。
1949年、ブラウン大学卒業生のマーガレット・ウォーフィールド・フォックスと結婚。
二人の間にはアン・ウォーフィールド、ロバート・リー、アレクサンダー・エモリー、エリザベス・フォックスの4人の子供が生まれた。
もし彼女の助力と助言がなかったら、私はそれを完成させることはできなかっただろう。とりわけ、〔ジャックの最初の心臓発作後の〕1995年以降、マーディは、多くのプロジェクトを結実させるうえで非常に貴重な役割を引き受けてくれた。彼女は、講義の一つひとつを注意深く読み、誤って解されるかもしれない文章を明確にしたり、指摘することに労を惜しまなかった。2000年に、ジャックが本書の編集を私に依頼する前に、すでにマーディは、ロック、ルソー、ミル、マルクスの講義の編集をほぼ完成させていた。ジャックは、これらの講義を注意深く再読し、それを自分のものとして認めた。
アンヌ・ロールズは〔2001年に〕ホッブズとヒュームの講義の録音テープを起こしてくれた。
(私見:ジョン・ロールズの家族について)
アン・ウォーフィールド・ロールズ
Anne Warfield Rawls - Wikipedia
その後、マーディは、それらを読むことのできる形に直し、さらに私が、ロールズのタイプや手書きのノートや配布資料にもとづいて、修正や追加を行った。
シジウィックとバトラーの講義については、ロールズの手書きの講義ノートをタイプした。私は、ロールズの講義ファイルにあるシジウィックについての他のノートを用いて、最初のシジウィック講義に加筆した。これらの講義における編者による校訂は、ロールズ自身が書いた文章や段落を配置し直すことを含んでいる。
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〈以下、謝辞〉
12
〈同じく、謝辞〉
〈了〉